娯楽として広まった浮世絵がヨーロッパで芸術として認知されたのは、江戸時代末期の頃でしたが、シンプルな構図と鮮やかな色合いが強烈なインパクトを放っていたため、平面的な画面でも遠近感を駆使していることから、浮世絵は絵を描く上での教科書と考えても過言ではありません。まず浮世絵は非常にきめ細かい描写を施しているのですが、全ての要素が相互的に呼応して、印象を高めているので美しい一体感を成しています。そこにベタ塗りの背景が加わるとより絵の中の風景や人物が立体的に浮かび上がります。まず参考にするべき点は、人物や風景を忠実に再現している点です。中世のヨーロッパのアカデミズムも現実を写真のごとく描写しているので、世界中から注目はされますが、色合いに関して言うと鮮やかさの喪失が目立ち、遊び心がないので厳粛な雰囲気から逃れる事ができないというマイナス要素は拭えません。

浮世絵が見ていて楽しめるのは、写実的でありながらもベタ塗りを完璧に施し、陰影の代わりに画面の奥行きだけで、立体感を表現していることと明るい色を大胆に使っている事も注目すべき技法と言えます。ただこれらの技術を自己のうちで養い発達させるには、まずは浮世絵の模写から始める必要があります。浮世絵の中でも最高傑作と言われている葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖」は白波がうねる中を3隻の船が大きく揺られながら波をかわして行く光景が描かれ、背景にはほぼ全体が真っ白に覆われた富士山がそびえて立っていると言う、波、船、富士山の3点をみごとに1つのイメージで結んでいると言う世界でも名だたる名画に指定されています。

ようするに、浮世絵の美しさと言うのは線で様々な事象を表しているため、油絵のような粒子性はありませんが、それらの表現を上回るベタ塗りと立体的な奥行きが迫力を生んだり、美的な色合いを放出して多面的な遊び感覚に溢れていました。では日本人が生んだ過去の産物に対して、現代人が成しえる最新の発想とそれらをどの様に転換すれば浮世絵のような総合芸術群を生み出せるのでしょうか。浮世絵は江戸時代のコミックとして、庶民の間で親しまれてきたことから、誰からも愛される画風というものを発展させる必要があり、瞬間的な表情を無の中に取り入れて、1枚の絵で風情や喜怒哀楽を表現しなければなりませんでした。

そういった困難な状況の中で絵師たちは、様々な工夫を凝らして多くの作品を発表し続けたので、マーケットは広がり日本人の中に輪郭線の文化が根強く息づいていきました。現代作家の多くが漫画からインスピレーションを受け、それを独自の視点に置き換えて構造を組み替えるため、斬新なアイデアが次々と誕生しています。要するに浮世絵を模写しつつもアイデアという視点から、新たに思考を組み換えて自分なりの表現形態を作れば、浮世絵を超える奥深さと日本人らしい美しい線がなめらかなタッチで再構築されることになるので、パソコンやスマートフォンなどのツールを活用するのも独自の表現を探る上では重要なチャネルと言えます。

ただ日本人は西洋人と違って、陰影に対する技量が不足しているため、斬新な手法を考案する上でかかせないのが、光と影のコントラストをいかに日本人らしい線や物体の形状を滑らかなタッチで表現するかという課題がありますし、自己の限界を超えるための統括的な訓練が必要になってくるので、葛飾北斎に対してレオナルド・ダ・ビンチのビジョンや表現形態における分析力をどこまで理解できるかが重要になってきますし、双方の技量を探る上での観察力もなくてはならないので、総合的に探っていく必要があります。